はじめまして!フリーランスCanvaデザイナー【はち】と申します!
自己紹介「はじめまして!はちです!」
このブログにお越しいただき、ありがとうございます!
奈良でフリーランスCanvaデザイナー・Canva講師
女性向け在宅起業コーチとして
活動しております。
「講師?起業?なんかすごいですね・・・」
そうおもいますか?
そんなことはないんです!
わたしは2年前まで普通の平凡な会社員。
パソコンもろくに触れない、製造業の職人のようなお仕事をしていました。
これといったスキルも経験もなかった、本当にごく普通のシングルマザー。
子どもは中学生の双子の息子たち。
これからお金がかかる時期です・・・💦
そんな思いでこのブログをご覧になられたかたも多いのではないでしょうか?
わたしはそれまで「ふつう」のママ。
キャリアもスキルもありませんでした。
起業することになったきっかけがありました。
双子の息子たちが小学校2年生の時
突然、主人をなくしシングルマザーになったことです。
まさか私が、30代で夫をなくして
ひとりで家計を支えることになるなんて
思ってもいませんでした。
人生って本当に何があるか分からない。
それまで本当に、パートと家事・子育てしかできない、普通のママ
そんな私が
ここについてお話ししていきます。
小学校時代:作るのが大好きな子ども
私はごく普通の会社員の父・専業主婦の母のもとで
三人姉妹の長女として育ちました。
父は大企業の営業職。
お金の苦労なく、周りもそういう家庭が多い地域で過ごしました。
父は年中出張で、週末しか家にいませんでしたが、その週末には野外アスレチックに連れて行ってくれたり、家族を大切にしてくれているのは感じました。
両親とも倹約家で、外食や旅行は少なかったですが、
山口県の祖父母宅に帰省するのが毎年の一大イベントでした。
ただ、若くして私たちを産んだ母はいわゆるワンオペ育児。
第一子だったわたしに、母は何かと先回りして、
面倒が起きないように注意されたり
「ピアノを習いたい!」
と提案した時も
「お金もかかるし、本当にちゃんと練習するの?お母さんはピアノはわからないからサポートできないからね。それでもいいならお父さんに相談してみたら?」
・・・ちょっとは応援してくれてもいいやん・・・。
とても悲しい気持ちになったのを覚えています。
何かと新しいことを始めたがる、好奇心旺盛な私に
母は戸惑っていたのでしょうが、なにかと否定され続けていたので
自己肯定感の鬼低い子どもになりました。
でも姉妹の仲はよく、いまでも実家に集まったり
小学校低学年時代は、友達にも恵まれ今でも連絡を取る子もいます。
趣味として「工作」が大好きで
お菓子の箱をたくさん取っておいては、セロテープや厚紙で
人形遊びの家具なんかをつくっている子供でした。
かといってインドア派といえば、そうではなくて外で「ゴム飛び」
(昭和世代の方、わかりますか!?笑)や
近所のお友達と鬼ごっこなどして暗くなるまで遊んでいました。
このころは毎日がとても楽しくて、先の不安などありませんでしたね。
6年生〜中学:楽しくない学校生活
そんな毎日に突如、転機が訪れます。
借家だった家から、となりの学区に父が家を購入し、転校することになったのです。
当時、小学校6年生。6月のことでした。
修学旅行へいってすぐに転校・・・
転校先でわたしにカルチャーショックが待っていました。
それは「友達づくりができない」ということです。
6年生ともなると、とくに女子はグループが出来上がっていました。
なんとか、やさしいこたちにグループに入れてもらいましたが、どこか馴染めません。
なにがこんなにやりづらいのか、当時の私にはわかりませんでしたが、
大人になってから理解できました。
学生時代の「学校」って、この世の全てくらいに重要な場所ですよね?
ほとんどの時間を学校で過ごしますし、おもいでのほとんどががっこうでの事だと思います。
気に入らない子はグループ内でも仲間外れにしたり
皆、自分を守ることに必死な様子でした。
そんな中学時代を過ごしたため
『仲間』と言うものを、自分はこんなに大切に思っているのに
どうしてみんな、こんなに冷たいんだろう?
前の学校と全然違う・・・。
少し価値観の違う子供だったので、当然クラスで浮くようになっていきました。
いじめのようなこともされたり、明らかに私に向けているとわかる悪口を言ってくる男子もいました。
私は「あんな人たちの憂さ晴らしに付き合いたくないな」
そんな冷めた子供だったと思います。
前の学校ではあんなに毎日が楽しかったのに、一気に楽しくない毎日に豹変してしまいました。
この経験から
「住む環境」「関わる人」によって、
人生は大きく変わるものなんだ
と言うことを理解しました。
じつは小学校1年生の頃にも、父の転勤で転校しています。
大人の仕事の都合で何度も転校させられ、
「こんな学校に通わされて、なんて理不尽なんだ!」
と言う怒りも感じていました。
高校〜大学生:人生巻き返し時代
そんな憂鬱な中学時代を終え、高校は同じ中学の子が少ない
少しはなれた高校を選びました。
「中学のような生活は絶対に送りたくない!!」
そう思っていた私は、これをモチベーションに
より良い人生にするために頑張るエネルギーにかえて、努力しました。
これが大正解!
似た雰囲気・似た価値観の仲間たちと過ごすのは、こんなに楽しいの!?
普通の県立の高校でしたが、音楽科と美術科のある
すこし変わった高校でしたので個性的で面白い友達が一気に増えました。
ここから、わたしの人生の巻き返しが始まったのです。
個性的な友達や、帰国子女の友達が増えたからか
一気に価値観が広く変化しましたし、今で言う「多様性」と言う言葉が当てはまります。
自己肯定感の低さで悩んでいた私は
「このままの自分でいいんだ!」ということに気づき
一気に生きづらさを感じなくなっていきました。
環境って本当に大切です!
ずっとやりたかった吹奏楽部で部長としても活動し
先生と生徒たちの間に立って悩むこともありました。
でもその経験が、その後の私を作ったと言える、良い経験になりましたね!
高校生って、もう大人です。
起業する方も出てきますし、私の好きな
両学長もこのころには会社を経営されています。
その後、
大学でも吹奏楽を続けて仲間と何かを作り上げることをやりたい!
その思いから大学受験も頑張って、無事、吹奏楽部が活動的な希望の大学に合格しました。
やりたかった吹奏楽部で毎日終バスまで練習する日々は本当に楽しかったです。
やりがいも、努力できる環境もあって、たくさんの仲間と笑いながら
頑張っていました。
ただ自宅から2時間半通学だったので、とにかく寝不足。
2回生になった時に「回生代表」をやり始めてから、体調に変化を感じ始めます。
いくら若くても、やっぱり睡眠不足はダメですね。
部活での活動内容や、かんたんな確認事項も頭に入らないのです。
先輩たちや学校内との交渉ごとや、同級生の取りまとめ、意見の食い違いからの
方向性の模策・・・
くわえて楽器の練習や、後輩への指導、授業の課題
やることは盛りだくさんで、寝る時間がない。
リラックスする時間を取ることもできず
平均睡眠時間は当時、3時間程度でした。
(セルフブラックがすぎますね)
そしてついに限界が訪れます。
楽器が吹けなくなってしまったんです。
診断は「自律神経失調症」
食事や、会話、その他の日常生活は支障ないのに
なぜか楽器を吹くときだけ、からだに力が入らず
まともに楽器を吹くことが出来なくなりました。
当時は自分も周りも訳も分からず、ある先輩に
「サボってるだけじゃないの?」と言われたこともあって、
とても悔しくショックだったのをはっきりと覚えています。
同級生もどうしていいか分からなかったと、あとから聞きました。
ただ一つ、決めていたことは
「この部活を辞める選択肢はない」
これははっきりしていました。
一旦、打楽器に転向してリハビリしながら、療養しつつ部活内のできることをやりました。
先輩方や、監督してくださっていた先生と相談し、半年ほど経ったころ
正式に楽器を変わって出直すことになりました。
大学ではユーホニウムという、マイナーな楽器を担当していましたが
高校時代はアルトサックスを吹いていたので、同じ木管楽器で
当時人数不足だったクラリネットを担当することに。
ここからは人生の巻き返しパート2です。
当時、3回生になっていたので、後輩といっしょになって
バリバリ練習しました。
基礎練習は本当に毎日、集中してやっていました。
この頃の努力はもう私らしくないほどに、全力でした。
何より、ちゃんと吹けるようになって
部活で心配をかけてしまった先輩方や、先生に恩返ししたい!
そして後輩たちに教えられるくらいのレベルに何としてもなりたい!
こうして書いていて気づきますが、
「誰かのため」に頑張る時って、想像以上の力がでるものです。
努力の甲斐もあって、4年生の最後のコンクールでは、普通にクラリネットはもちろん
バスクラリネットでソロも吹くほどに上達しました。
当時優しく見守ってくださった、先生や先輩方
対応に困っていた同級生には本当にお世話になりましたし
20年経った今でも、定期的に集まっているすばらしい仲間です。
社会人・結婚:主人に扶養される違和感と不安
こうして学生時代のタスクを全うできた私は、食いしん坊な性格から
食品関係の仕事がしたいと思い(安直な選択笑)
大手のスーパーマーケットに就職しました。
ところがこれがまた、サービス残業・休日出勤は当たり前のブラック企業でした。
朝の5時から深夜12時までの長時間労働で、毎日寝に帰るだけの日々。
とはいえ、それまでの睡眠3時間を経験していたので
さほど辛くはなかったのは、もう麻痺していましたね。(笑)
店長には世間知らずの私に社会人の基礎を
面白おかしく指導していただきました。
とても子育てしながら働ける環境ではなかったので、育休を取っても復帰できる未来は描けませんでした。
そして同期の主人と出会い、結婚してパートになりました。
子供が生まれてからは一旦、専業主婦に。
双子が2歳になった頃、専業主婦で生きている生活にだんだん
疑問と不安を抱くようになってきました。
「旦那さんのお給料だけで、この先やっていけるのだろうか?」
「双子の進学は同時なのに、教育費は間に合うの?」
「自分で遠慮なく買い物がしたい・・・!」
「家事と子育てだけしていても、全然楽しくない」
「じぶんは社会の役になっていないのでは?」
そんな疑問や不安と、毎日格闘していました。
パートに出始めましたが、双子の子どもはすぐ熱を出します。
しかも、時差で風邪を引くので、ほとんど働けない月もありました。
実家は遠く頼れませんし、病児保育もいっぱいで正社員や公務員が優先でした。
そこで、主人が帰ってきてからバトンタッチし
マクドで夜勤するようになりました。
主人の転勤に合わせて引っ越しをする必要があったので、どこでも使える
マクドのスキルはとても素晴らしかったですね。
この経験から、「汎用性のあるスキル」と言うものの重要性を感じていました。
主人の所属部署の関係で、
兵庫、広島、香川、徳島、岡山と
たくさんの場所に住みました。
日本であれば、どこであっても安心ですし「住めば都」です!
その土地の美味しいものや、名所、方言、地域文化も存分に息子たちと楽しみました。
ここからどこででも暮らせる自信になり、私の目標である「バンライフ」につながっているのだと思います。
シンママスタート期:突然の別れ
そんな幸せで「普通」の生活が続くと思っていた頃のことです。
当時、まだ30代半ばだった主人が職場で倒れたのです。
そして話もできないまま、なくなってしまいました。
本人はまだ小学生だった息子たちを残し
もっとやりたいこともあったと思います。
息子とのキャッチボールも、数回しかしていませんでした。
その頃は私も子育てと仕事に必死で、主人の健康をあまり気遣っていませんでしたし、
いまでも後悔がたくさんあります。
「まさか自分が一家の大黒柱になるなんて・・・どうしよう・・・!」
それまで結婚するまで勤めていた、数年のスーパー店員。
マクドやミスドなどチェーン店のパートしか経験がありませんでしたから
稼げるスキルなんて、何もない。
とても焦りました。
何も考えられず、1週間くらい呆然としていました。
両親の勧めで一旦、奈良の実家に身を寄せることにしました。
そのほうが子供たちの不安も和らぐと思ったのもおおきいですが
両親もわたしたちがそばにいた方が安心すると思いました。
それに、いずれは年老いた両親のサポートも必要になってきます。
将来的なことも見据えての引っ越しを決意しました。
皮肉なことに、わたしがあんなに嫌だった引っ越しを
小学生だった我が子にさせてしまうのが残念で悔しかった。
私に充分な経済力があって
突如父親を亡くした子ども達を、そばで見守りながら働けたらよかったのに
今でも悔しい想いは消えません。
あまり大切にしてあげられないまま、他界した主人にも
申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
会社員に復帰〜起業:本当に生きたい人生って?
こうして、私のセカンドステージは実家での居候から始まりました。
人生の巻き返しパート3です。
それまでは、
そんな気持ちでのほほんと、ただ毎日を過ごすだけの、呑気なママでした。
でも現実は厳しかった。そんなぬるい生き方をしていた私に
世の中は喝を入れてきました。
「とにかく、息子たちの飯代を稼がなきゃ・・・!!」
実家近くで正社員の仕事を探しました。
運良く、ものづくりの職人のような仕事に就職しました。
たくさんのパートさんたちと笑いながら食事をしたり
たまに愚痴を聞いてもらいながら飲みに行って大笑いしたり。
ものづくりの仕事もそれなりに楽しく働いてはいましたが、コロナの流行を機に
少し将来に不安を覚えます。
だんだんと会社の様子もわかってきました。
そして、新しい技術を取り入れない会社の風土
向上心のない社員たち
売り上げを上げる気もなく、無難に会社の存続を守るだけの経営陣・・・
5年働いている間に、私のモチベーションはどんどん下がっていきました。
そして、また、大学時代と同じ症状が出始めました。
「仕事が頭に入ってこない」
「全くやる気がわかない」
自分でも「またきたなぁ」と感じていたので、いずれ退職することをかんがえ
まずは副業を検討しなければ!
そう思い情報収集から始めました。
「自分らしくもっと人の役に立てる仕事がしたい」
「このまま年だけ取っていくのはいやだ!」
そんな中、わたしは一つのライフスタイルを知ることになりました。
「バンライフ」
それは、キャンピングカーや車中泊できる素養にした車で、自由に移動しながら仕事をしつつ生活するライフスタイルです。
そんなライフスタイルがあることを知り、会社員だった私は
「パソコン一つで、場所を選ばず働ける?
そんなこと私にできるかな・・・でも挑戦してみたい!」
そしてたくさんある仕事の中から、Webデザインを学びはじめました。
会社の方は、さらに状況は悪化していました。
気分で仕事をする上司に、少し反抗的になっていたせいもあり
私への暴言が増えていました。
上司が会社に不満をもっているのは知っていましたが、それは私にはどうすることもできません。
そしてその鬱憤を、私を含む部下たちで晴らし始めました。
「おれは頑張っているんだぞ、言うことを聞けばいいんだ!」
たくさんの先輩が退職していきました。
人望がない上司に、会社も当たりはきつく、より悪循環に・・・
そして2023年4月。
またしても突然、その日は訪れます。
会社へ向かい、車を走らせていた道中で社屋が見えたその時。
突然の息切れと動悸・冷や汗
全身の血の気が引く感覚に襲われました。
聞いたことはあったけど、まさか自分に起きるなんて信じられませんでした。
すぐに車を停めて、会社には体調不良で休むと伝えました。
その日からしばらく休んでみましたが、どうしても会社へ行くことができません。
もう少し、頑張れると思っていたのですが
体は正直だったのか、「もう無理だよ!」と
サインを送ってきたんですね。
そして会社を退職しました。
ただ、こうなるまでに副業を始めていたことが、大きな支えになりました。
・WEBデザインを学んでいたこと
・SNS発信を始めていたこと
・起業の仲間がいたこと
この3つが私を救ってくれました。
そして、いまではデザインだけでやっていくまでになりました。
いきる環境って、本当に大切です。
AIが発達し、これからも激動の変化が予想される令和の世で
これからを生きる息子たちに
自分で働きかたを選べる選択肢を持って欲しい。
雇われない生き方もあると 知ってほしい。
今はそんな思いでデザイナーとして活動しています。
履歴書に書くことが何もなかった私でも、シンママでも、起業・副業はできます!
ズボラで、会社でもできないやつと言われ、自己肯定感も低かった私でも
「必要なスキル」と「新しいマインド」を手に入れることで、あなたの理想の人生に近づけていくことができます。
そのために必要な「在宅ワークスキル」を手に入れましょう!
これを読んでくださったあなたに
そう希望を持っていただけるきっかけになれたら幸いです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!